2017年2月11日土曜日

第64期生卒業式

第64期生卒業式が、2017年3月10日(金)・午後1時30分から行われます。2名が卒業予定です。祝福をお祈りください。

神学院報巻頭言

行き詰まりも恵み

 「主よ。あなたはどなたですか」(使徒九・5)。「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモ一・15)

 「私は何者なのだろう」と自らに問えば、パウロのように「私は罪人のかしらです」と答えるだろうと思います。しかしこれは、必ずしも実態がなくても簡単に言えてしまう、「クリスチャン好みのする」言い方です。
 この言い方の裏側には、「主よ。あなたはどなたですか」という問いがあります。人間は他者に向き合うと、自分を認識するからです。ですから、自分が見えれば見えるほど他者を知る度合いは深まり、他者を他者として尊重できるようになります。他者認識と自己認識はかなり連動しているのです。
 他者尊重は福音の神髄です。「私は何者なのだろう」という問いを真剣にした者の自然な生き様です。他者尊重が希薄な宗教は、神学や主張が明確でも、「私は何者なのだろう」を問うギリギリの線でイエスさまに向き合ったことが乏しいことの裏返しかもしれません。
 奉仕は指導ではなく、大切な他者である信徒の皆さま一人ひとりのありのままを尊重できることです。他者は自分の都合のために生きている存在ではなく、こういった面が全くないということではありませんが、教会の戦力でもありません。人はみな自分と同じ、血の通った人間であり、神さまが委ねてくださった宝ものです。これが他者認識と自己認識の問題です。
 自己を知ることによる他者認識は、情けない自分に涙した経験なしにはあり得ないということなのでしょう。いろいろ苦労はあったけれども、なんだかんだ言っても頑張ってやってこれた「私は何者なのだろう」は、エリートイズムを脱しない、人への共感が乏しく、他者尊重が希薄なイデオロギーです。逆説的ですが、神の国では行き詰まりも恵みです。自己存在を問う行き詰まりこそ恵みです。なぜなら、恵みの世界は何度も出直しができるからです。