2016年10月15日土曜日

神学院報巻頭言より

 自分が素材~奉仕者の品格

 「自分自身に気を配る」(使徒の働き二〇・28

 「自分自身に気を配る」といっても、絶えず自らを律するようにということではありません。これをやりすぎると、福音はどこか息苦しい、自意識過剰のエリートイズムになります。福音には、神さまが導いてくださると思えることで、自分を自分で監視する必要がなくなる自由さがあります。
 自分自身に気を配るとは、「福音は自分が素材である」ということかもしれません。みことばを語る(27節)奉仕も、涙をもって共に歩む(31節)生き方も、その背景にナマの自分がある、つまり、人生をかけるほどの失敗や挫折の中で、それでもイエスさまが情けない自分に寄り添ってくださった恵みの風景があるのだと思います。
 失敗して、群れの方々に教えていただくことが何度もありました。そのとき、最初は葛藤しても、やはり自分に気を配る以外にないのです。自分のどこが足りなかったのだろう、何が躓きになってしまったのだろう、福音はそこからスタートする以外にないのです。
 パウロの奉仕は一見強圧的にも見えます。憤って(十七・16)論戦したかと思えば、相手を承服させようとします(十八・4)。それは、「労苦して弱い者を助ける」(35節)といったイメージとかなり違います。でも、実態はそうだったのでしょう。自分に気を配る目線は、労苦して弱い者を助ける方向に自然に向いて行きます。
 信徒の方のご活躍を拝見するのは嬉しいものです。信徒の方と同じ目線で見るようにしたい、青年や子どもから教えられることを学びたい、やろうと思うと難しいのですが、そういう思いがどこかにあります。失敗した方の側に立つ、苦悩する方の側に立つ、なぜそう思うのか。それは、助けたいなどといういきがりではありません。自分がそれ以上の者でないだけです。福音は、自分が得ることではなく、自分が素材であることです。

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