行き詰まりも恵み
「主よ。あなたはどなたですか」(使徒九・5)。「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモ一・15)
「私は何者なのだろう」と自らに問えば、パウロのように「私は罪人のかしらです」と答えるだろうと思います。しかしこれは、必ずしも実態がなくても簡単に言えてしまう、「クリスチャン好みのする」言い方です。
この言い方の裏側には、「主よ。あなたはどなたですか」という問いがあります。人間は他者に向き合うと、自分を認識するからです。ですから、自分が見えれば見えるほど他者を知る度合いは深まり、他者を他者として尊重できるようになります。他者認識と自己認識はかなり連動しているのです。
他者尊重は福音の神髄です。「私は何者なのだろう」という問いを真剣にした者の自然な生き様です。他者尊重が希薄な宗教は、神学や主張が明確でも、「私は何者なのだろう」を問うギリギリの線でイエスさまに向き合ったことが乏しいことの裏返しかもしれません。
奉仕は指導ではなく、大切な他者である信徒の皆さま一人ひとりのありのままを尊重できることです。他者は自分の都合のために生きている存在ではなく、こういった面が全くないということではありませんが、教会の戦力でもありません。人はみな自分と同じ、血の通った人間であり、神さまが委ねてくださった宝ものです。これが他者認識と自己認識の問題です。
自己を知ることによる他者認識は、情けない自分に涙した経験なしにはあり得ないということなのでしょう。いろいろ苦労はあったけれども、なんだかんだ言っても頑張ってやってこれた「私は何者なのだろう」は、エリートイズムを脱しない、人への共感が乏しく、他者尊重が希薄なイデオロギーです。逆説的ですが、神の国では行き詰まりも恵みです。自己存在を問う行き詰まりこそ恵みです。なぜなら、恵みの世界は何度も出直しができるからです。
2017年2月11日土曜日
2016年12月20日火曜日
2016年12月10日土曜日
2016年10月18日火曜日
秋のオープン・キャンパスがいよいよ今週末です
21日(金)・午後~22日(土)昼食の日程で行われます。
21日は1時30分から受け付け開始、午後2時から最初のクラスです。
お申込みがまだの方でもご遠慮なくお知らせください。
それでは、西八朔の森でお待ちしています。
21日は1時30分から受け付け開始、午後2時から最初のクラスです。
お申込みがまだの方でもご遠慮なくお知らせください。
それでは、西八朔の森でお待ちしています。
2016年10月15日土曜日
神学院報巻頭言より
自分が素材~奉仕者の品格
「自分自身に気を配る」(使徒の働き二〇・28)
「自分自身に気を配る」といっても、絶えず自らを律するようにということではありません。これをやりすぎると、福音はどこか息苦しい、自意識過剰のエリートイズムになります。福音には、神さまが導いてくださると思えることで、自分を自分で監視する必要がなくなる自由さがあります。
自分自身に気を配るとは、「福音は自分が素材である」ということかもしれません。みことばを語る(27節)奉仕も、涙をもって共に歩む(31節)生き方も、その背景にナマの自分がある、つまり、人生をかけるほどの失敗や挫折の中で、それでもイエスさまが情けない自分に寄り添ってくださった恵みの風景があるのだと思います。
失敗して、群れの方々に教えていただくことが何度もありました。そのとき、最初は葛藤しても、やはり自分に気を配る以外にないのです。自分のどこが足りなかったのだろう、何が躓きになってしまったのだろう、福音はそこからスタートする以外にないのです。
パウロの奉仕は一見強圧的にも見えます。憤って(十七・16)論戦したかと思えば、相手を承服させようとします(十八・4)。それは、「労苦して弱い者を助ける」(35節)といったイメージとかなり違います。でも、実態はそうだったのでしょう。自分に気を配る目線は、労苦して弱い者を助ける方向に自然に向いて行きます。
信徒の方のご活躍を拝見するのは嬉しいものです。信徒の方と同じ目線で見るようにしたい、青年や子どもから教えられることを学びたい、やろうと思うと難しいのですが、そういう思いがどこかにあります。失敗した方の側に立つ、苦悩する方の側に立つ、なぜそう思うのか。それは、助けたいなどといういきがりではありません。自分がそれ以上の者でないだけです。福音は、自分が得ることではなく、自分が素材であることです。
2016年10月8日土曜日
2016年10月1日土曜日
信徒地区講座 今年は九州で開催
今年は九州の熊本教会で、信徒地区講座を開催させていただくことになりました。11月3日(木)祝日です。
間もなく九州の各教会にご案内のチラシと申込書が届けられます。ふるってご参加ください。
↑クリックしてください
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